Palabra

日々「言葉」をひろっています

ここ

夕暮れて道
遠し。
それでも
歩道橋から
四方
あって
あっち
見つめて
こっち
ゆき
あっち
くる
信号機は
また変わる
人工心臓の
てんめつ
まだ居るんだよ
ここに

(じ151229)

ここ

最初の交通信号は1868年イギリスのウェストミンスターで用いられた赤と緑の2灯式のものといわれます。光源にガスを用いて馬車の交通整理のために置かれましたが、3週間後に爆発事故を起こして撤去されたそうです。 

カリントウ

矢立の地から
船を漕ぎ出したら
川べりには着つくしたパンツが
ブラジャーが ソックスが
すすけた黄色のタオルが
洗濯竿にぶら下がっている
ベランダから
カリントウをかじる音が
聞こえてくる

(じ151130)

カリントウ

「カリントウ」は、天保年間(1830~1844)に江戸・深川六間堀の山口屋吉兵衛という人が売り出してから、爆発的に流行したそうです。当時は下り藤の紋に「深川名物・可里んたふ」と書いた大提灯を下げた行商が、夜、売り歩いていたようです。

ばった(3句)

ほうけ立つ裸体の老母洗ひ髪

ばつたにもきつたはつたのありしかな

生きかたは百万通り雁渡る

(り全)

ばった

「ばった」は後肢が発達していて、キチキチと羽を鳴らしてよく跳びます。また、古道具商の言葉で投げ売りの意にも使われます。 

見えない夜を歩いている
見えないから夜歩いてる
見えない街を歩いている
星はいくつか見えてきた
そういえば家の明かりも
てんてん幾つか灯ってる
見えなくても道歩いてる
見たいと思って歩いてる
いつかお月さん出てくる
見えない夜を歩いている

(じ151014)

月

いま、太陽表面で起きた爆発現象「フレア」が連続して発生して、放出された大量の粒子が衝撃波となって地球の上空に到達しているそうです。地球の電離層が乱れて、無線通信やGPSに障害を起こすおそれがあるとか。私たちは太陽系の中で生きているのです。 

くい

杭を打っている
稔りのない乾田に杭を打っている
悔いを打ち込んでいる
ドボドボの湿原に
杭を打ちこむ
悔いを打ちつけている
稲の立たない泥田に
悔いを打っている
響いてゆかぬ杭を
それでも打ち抜こうと
誰も寄せ付けない裸田に
ひとり杭を打っている
悔いを打ちつけている
いつまでも舌足らずな
田植え歌をうたいながら
杭を打ちつづけている
わたしの在り処に
悔いを打ちつづけている

(じ151026)

くい

悔いに杭を打ち込んでいる。出る杭は打たれ、焼け木杭(ぼっくい)には火がつく。 

ゼロ未満

記憶が失せて
こなごなの
海馬の断片が
混沌の海に
湧き上がる
いつも
連鎖は消えて
ゼロ未満
やっと
離れ小島に
しがみつく
あしたが途切れ
またきのうから
断絶の
生きなおし

(じ160106)

ゼロ

「海馬」は、脳の内部にある古い大脳皮質の一部で、記憶の貯蔵装置としての役割を担っていると考えられています。その原始型は魚類や両生類にもみられ、ギリシア神話に登場する海神ポセイドンが乗る海の怪物ヒッポカンポスの下半身についている魚の尾の形に似ているので名づけられました。 

空から落ちて
溜まってゆく
生まれてからずっと
溜まりつづけている
地面すれすれのところまで
降下して息を漏らす

(じ151105)

息

「息」は、呼吸で生じる空気の運動のことで、気息、気ともいわれます。人間の存在を支える生命力でもあり、形而上的な霊気をさすこともあります。ギリシア語のプシュケー(魂、霊魂)はもともと気息を意味したそうです。 

天地

また一人逝き
天を仰ぐ
また一日過ぎ
地に伏せる
日常という
シーソー
傾いてしがみつき
もどりまた傾いて
へばりつく

また一人逝き
天に祈る
また一日過ぎ
地をまたぐ
歯医者の予約は
まだ入っている
生姜焼定食は
きょうも運ばれてくる
日の出湯はまだ湧いている

(じ160105)

天地

万葉集(巻五)山上憶良の貧窮問答歌に「天地は広しといへど我がためは狭くやなりぬる」という一節がありましたが、天地の狭さ身に沁む昨今です。

平然と雲の上を
歩いている
あるのかないのかは
どうでもよく
絨毯の上を
歩いている
落っこちても
跳ね上がっても
歯牙にも掛けず
歩いている
転んでも
平然と起き上がて
また歩いている
ただの阿保なのか
悟っているのか
生きているのか
死んでいるのか
構わずに雲を
歩いている
冠も飾りも付けず
付けたいとも思わず
ただ歩いている
そうしているのが
すきだから
それしかないから
歩いている

(じ151030)

雲

「「好き」と「打ち込む」はコインの表と裏のようなもので、その因果関係は循環しています。好きだから仕事に打ち込めるし、打ち込むうちに好きになってくるものです。」(稲盛和夫『生き方』から)

眼(5句)

水打ちてほどなく四十九日かな

単眼をはきと颱風迷走す

秋うらら二十歳の頃のきみの肌

ひろごれる雲の船団遠案山子

真田藩十万石や稲すずめ

(り160913)

眼

台風の中心付近にある台風の「眼」は、気圧の最も低い部分です。下降気流があるため雲が切れて青空が見られることが多く、風もが弱いのですが、眼の周りには激しい上昇気流と発達した積乱雲が壁のように取り巻き、猛烈な暴風雨となっています。台風の眼の大きさはふつう直径 10~100キロくらいで、絶えずその形や大きさを変えています。眼は、台風の発達期から最盛期には小さくはっきりとした円形となり、衰弱期になると大きくなって円が崩れていきます。 

九十九折

あしをとめれば
九十九折
むこうもこっちも
九十九折
とおげでながめて
九十九折
まえへすすめど
九十九折
うまれてこのかた
九十九折
やめてしまえど
九十九折
いつになっても
九十九折
まよってまよって
九十九折
それでもあるく
九十九折

(じ151029)

九十九

ジグザグ状に曲がりくねっている道を意味する「九十九折」(つづらおれ)。「九十九」は具体的な数を意味せず「多い」の意味でよく使われますが、ツヅラ(ツヅラフジ)のつるのように折れ曲がっている意から「葛折」とも書かれます。また、幾重にも曲がりくねった動物の腸に似ていることから「羊腸小径」ということもあります。 

追憶

サヴァンナの頭上
林冠にびよ~んと
掛かった吊り橋を
渡ってゆく
森の民は森を歩く
ハナバチは運んでゆく
ひょうひょうと生きて
消えていったひとがいる

(じ160319)

追憶

ボルネオの熱帯雨林で、地上40mの林冠を渡るつり橋を作り、生物の多様性を探るというユニークな研究を始めた生態学者・井上民二さんが、飛行機事故で亡くなってこの9月で20年になります。享年49歳でした。大きな夢を抱きながらも黙々とフィールドワークに打ち込んでいた彼の姿がいまも強く印象に残っています。 

悔恨

まだなにか
やれたんじゃあ
なかったかと
また騒ぐ
右脳も左脳も
海馬体も
足のさき
手のさきまでも
むずむずと
戻れぬ後悔
先に立たず
でも右往
左往と

(じ160125)

悔恨

「時はどんどん過ぎ去っていく。過去が増えて未来が少なくなっていく。可能性が減って、悔恨が増えていく。」(村上 春樹『 ダンス・ダンス・ダンス(下)』から) 

郷土

うねる森 渦巻くだんだん畑
降水確率ゼロの自信にあふれた空がある
いく山越えてあの通り道
あの公民館にあの八百屋
あの学校が あの病院があって
人が生えて土に立つ
何かが消えて何かが残る

(じ160317)

郷土

「ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの」で有名な室生犀星の「小景異情」には、「銀の時計をうしなへる/こころかなしや/ちよろちよろ川の橋の上/橋にもたれて泣いてをり」(その三)といった節もあります。 

どこか

リズムに乗って飛び跳ねなくても
前へはゆける
いまさらしたり顔で眺めるのは
ゴメンだけれど
同じ拍子を取っていかなくても
生きてはいられる
もっと激しく
もっと強く
あったのなら
どこへ行けたんだろう
どこへ行こうとしていたのだろう
きっとどこかへ行けたはず
きっとどこかへ行けなかったはず

(じ160328)

どこか

北海道の釧路市桂恋の海岸で、7月から行方不明になっていた中国福建省の小学校教師の女性(26)らしき遺体が見つかったそうです。道内観光に訪れたものの、札幌のゲストハウスに家族に別れを告げるようなメモを残して外出したまま行方が分からなくなったとか。彼女はどこへ行こうとしていたのでしょうか。 

沢蟹(5句)

友逝くやらせん階段蝉時雨

御巣鷹に沈思黙考沢の蟹

ためらひを楽しみながら踊の輪

蔓さぐり笑ふ西瓜を刈入れり

送り火の一期一会に送られて

(り160813)

沢蟹

沢蟹=写真、wiki=は、一生を淡水域で過ごす日本固有のカニ。子どものころつかまえてきて、揚げて食べたりしました。「沢蟹のあらがふことを愛(かな)しとす」(富安風生) 

未練

追いおとされてゆく未来
通りすぎてゆくだけの足元を
および腰ひざカクカクと
見つめている
投げ打たれたまま拡ごる過去の
とりもどせない四辻に
もどるすべはない
はずれもあたりも
もうくじは引けない

(じ160320)

未練

As we voyage along through life,/'Tis the set of a soul/That decides its goal,/And not the calm or the strife.(人生の海路をたどるとき/ゴールを決めるのは/凪でも嵐でもなく/魂の構えである)=Ella Wheeler Wilcox 

青田(5句)

安曇野や寄せては返す青田波

序破急を競ふ線香花火かな

風の香や記憶は寄せてまた消ゆる

水を打つ母は後家御のまま五年

認知症深まる母や門火燃ゆ

(り170814)

青田

青田は、稲の苗が生育して青々としている田んぼのこと。「山々を低く覚ゆる青田かな」(蕪村)

ならんだから

ならべられたまま
ならんでいる
ならんだまま
でなくてもういいのに
ならべられたまま
ならんでいる
ならんだまま
いきをしている
ならんでしまったから
ならんだまま
ことばをはいている
ならんできたから
ならぶためにいきる
ならんでいたかったと
くやんでいる

(じ160322)

ならんだ

Don’t compare yourself with anyone in this world… if you do so, you are insulting yourself.(自分のことを、この世の誰とも比べてはいけない。それは自分自身を侮辱する行為だ)=ビル・ゲイツ 

吊り橋

遠くから記憶がやってきて
近くから記憶が遠ざかり
瞬きとともに
ぷっつりと
消えさる

宙ぶらりんに
横たわる
あきらめきれない未来の
吊り橋

もとめず
ただ渡る

(じ150729)

吊り橋

I bring to life, I bring to death(わたしはものを産み ものを滅ぼす)
The spirit does but mean the breath (精神とはただ呼吸を意味する)
=テニスン「イン・メモリアム」から 

ゲリラ豪雨(5句)

遠雷や畦道戻るランドセル

病葉に鞭打つゲリラ豪雨かな

地団駄を踏めど動かず蝸牛

老耄の母の手に座す雨蛙

呼吸器の繋ぐいのちや大西日

(り170714)

ゲリラ

最近、ゲリラ豪雨らしきがすこぶる多くなって来ているように思います。予測が難しく局地的・突発的に襲うゲリラにたとえて、十~数十キロ範囲の狭い地域に時間雨量が50ミリをこえるような豪雨が短時間に降る現象を、2008年夏頃からこう呼ぶようになりました。 

鉱炉

夕陽が山を焼いてゆく
夕焼が雲を融かしてゆく
枯れた感性が
それでも
腫れてゆく
それでもと
頭を擡(もた)げてゆく

(じ160422)

高炉

山口誓子に「七月の青嶺まぢかく熔鑛炉」という句があります。「自選自解」には「鉄の鉱石を溶かしている炉は、鉄扉を開けると、真紅の火が流出した。
ひどい熱気だった、そんな熔鑛鑪を見て外に出た私は、製鉄所の直ぐ南に聳える青嶺を見た。熱気から脱け出た私は、その青嶺がじつに美しいと思った」と記しています。 

あ~あって

そこからまた記憶は途切れ
ぶつぶつとコンタミの祭り
あっち連なりこっち徘徊して
ぷっつりシナプスで消息を断つ
海馬に騎乗してくねりくねり
皺寄る脳溝の畝に鍬を入れても
記憶の土くれは四散するだけ
過去が未来を追いこしてゆく
アセチルコリンの気まぐれ
シグナル不在の交差点
知りあわせてしまう怖れ
忘れ去るという不可解な幸せ

頭をかち割ってくれと
アルツハイマーの母は叫んでいる
放り捨てようのない自分
もたげた言葉が崩れてゆく
まだ残っているからだの重さ
脳の林冠から降ってくる
不慣れな痴ほう老人の怯え
不慣れな定年退職介護者の惑い
時をまたいで精根尽きて
遠望する浦島太郎の孤独
悔恨にくねる川のほとりで
眺めている最後のほそ道

フィンセント・ファン・ゴッホは
どうしてあんなに自画像ばかり
描きつづけたのだろう
鏡に映った左右逆のじぶん
そうなろうと そうなっちまった
わけじゃなし あ~あって
いうしかない あ~あって
生きてるしか 流れてゆくの
待つしかない あ~あって

(思170715)

ゴッホ

ファン・ゴッホ(Vincent Willem van Gogh、1853-1890)=写真、wiki=は、10年ほどの画業の中で、パリに移住してから約37点の自画像を描きました。これは、モデルを雇うお金がなかったので、自分自身を描くことにした、あるいは、他人をモデルにした肖像画をうまく描けるようにするための習作とした、といった理由が考えられるそうです。パリ移住以前の自画像がないのは、顔全体が写るような大きさの鏡を持っていなかったためだったといわれています。

あぶくぽこぽこ(12句)

雛流す平安京の夜深し

仏和辞書めくりにめくれ桜餅

小諸なる古城ざざめく花盛り

屋上のクレーンくの字春の雲

猩猩緋色のくちびる瓜をはむ

生きものに雌と雄あり汗香る

サイホンにあぶくぽこぽこ涼新た

蟋蟀や蒸気機関車脚いくつ

爆弾の澄まし顔して檸檬かな

迷ひ入る糺ノ森や照紅葉

卓袱台に蜜柑の山の生まれたり

生国の貌で水鳥戯るる

(り100号記念170813)

あぶく

「いくら勉強しても、まったく展望が開けなかった。“登れども登れどもまだ麓かな、ジッと手を見る”の心境だった。でも、まだ己の限界まで死力を尽くしたわけではない。やれるだけ闘って数学という戦場で名誉の死を遂げよう。だって、人生はたった一回きりなのだから」(秋山仁の言葉) 

いつものように

そろそろはじめようか
いつものすり切れたボロ靴を履いて
いつものように
いつか終わることわかってるけど
いつ終わるか知れない道を
いつものように
いけるところまで
いくしかないから
いつものようにまた

(じ170128)

Palabra

「Palabra(パラブラ)」は、スペイン語で「言葉」のことです。日々に拾った言葉を、気長に記帳していきます。